『というか先生、いいタイミングで連絡下さいましたよ。実はたった今、〈パルフェ〉のWEB(ウェブ)サイトが完成したところで』「えっ? じゃあ今、編集部に?」『はい。僕が編集長なんで、一人残ってサイトの作成してました。――大丈夫です。残業手当ては出ますんで』 ……いや、心配はしてましたけども! ご本人が言うことじゃないでしょ、それ。『先生、そこにパソコンありますか?』「はい」 洛陽社のホームページから入れるというので、スマホをスピーカーにしてからパソコンを起動し、「洛陽社 パルフェ文庫」で検索してみたら、確かにそこには〈パルフェ〉のポップなデザインのサイトができている。「サイトに入れました。――えっ? もう私の本の情報アップしたんですか? 早すぎません?」 創刊は八月で、今はまだ六月中旬。しかも表紙どころか原稿すらまだ上がっていないのに。『まあ、これは宣伝も兼ねて。それに、これご覧になったら先生の士気(しき)も上がるんじゃないかと思って』「はい。これを見て、私も俄然(がぜん)やる気になりました」 原口さんって不器用だけど、時々こうして粋(イキ)な計らいをしてくれる。お節介だと思うこともあるけど、こういうところが憎めないのだ。『このサイト、スマホからも入れるようにしてあります。あと、SNSのアカウントも作っておいたのでフォローしておいてもらえると……』「分かりました。ありがとうございます。最後まで頑張って書きますね! じゃ、失礼します!」 電話を切ると、スマホのホーム画面にもサイトのショートカットを貼りつけた。これを見れば、もしまた挫(くじ)けそうになっても「頑張ろう!」と思える。「――さて、昨日から書きまくって疲れたし、今日はこれくらいにしとこうかな」 三日ぶりに執筆ペースが戻り、この二日間飛ばしたので疲れた。でもイヤな疲れじゃなく、なんだか心地いい疲労感だった。 そして内容としても、一番のヤマだった恋愛の章を書き終えたことで、少し肩の荷が下りた気がした。
――数日後。「おはようございます!」 何日ぶりかに〈きよづか書店〉のバイトに復活した私は、ケガも不調もウソだったみたいに元気よく出勤した。「おはよ、奈美ちゃん。今西クンから聞いたよ! こないだケガして、それでしばらく休んでたんだって? もう大丈夫なの?」 今日は一緒のシフトに入っている由佳ちゃんが、心配して私を質問攻めにした。「うん。大したケガじゃなかったし、もう何ともないよ。――あ、店長。おはようございます」「おはよう。巻田さん、調子はどうかな?」「はい、もう大丈夫です。先日はご心配とご迷惑をおかけしてすみませんでした」 店長は今西クンから、私が悩んでいたことを聞いたらしい。きっと何日も一日気を揉(も)んでくれていたであろう清塚店長に、私は心からのお詫(わ)びを伝えた。「その調子だと、もう吹っ切れたようだね。よかった」「はい! 今日からまた、心機(しんき)一転(いってん)頑張ります!」「……? 奈美ちゃん、〝吹っ切れた〟って何が? ケガ以外に何かあったの?」 あの日は休みだったから事情を知らない由佳ちゃんが、一人首を傾げる。「うん、まあ……。色々あったんだけど、詳しい話はお昼休みにね。――さ、仕事しよ」「えっ!? うん……」 私が肩をポンッと叩くと、彼女はまだ釈然(しゃくぜん)としないのか、キョトンとしていた――。 * * * *「――ええっ!? 奈美ちゃんがスランプ?」 お昼を過ぎ、客足が落ち着いてきたので、私と由佳ちゃんは一緒にお昼休憩を取らせてもらった。 自作のお弁当を食べながら、私は数日前の出来事を由佳ちゃんに話した。――三日前に琴音先生からかかってきた電話のことも。万引き事件の話の時には、「悔しい~! あたしがその場にいれば、その中坊とっ捕まえてやったのに!」と怒りをあらわにしていた。「うん。まあ、お母さんのおかげで抜け出せたんだけどね」「っていうか、あの女の人、ホントに原口さんの元カノだったんだねー。ビックリ」 由佳ちゃんがサンドイッチにかぶりつきながら、素直な感想を漏らした。「まあ、別れたのは自分の不器用さゆえだって、原口さんは言ってたけど。でも分かんないんだ。どうして彼が私を選んだのか」「やっぱ、奈美ちゃんが好きだからなんじゃないの? なんだかんだで大事にされてるみたいだし」「うん。……Sだけ
「――で? 告白の時はもうすぐなの?」 笑いがおさまったらしい由佳ちゃんが、私の顔を覗き込む。「うん」 締め切りは来月半ばだけれど、今の執筆ペースでいけばそれより早く書き上げられるはず。そしたらその日が、いよいよ告白決行のX(エックス)デーだ! 美加も由佳ちゃんも、そして琴音先生も気づいている。彼が私を好きだってことに。そして多分、私の気持ちを彼も知ってる。告白にはエネルギーが必要だけど、今回はもしかしたら〝省エネ〟で済むかもしれない。「そっか。きっとうまくいくって、あたし信じてるよ! ――さて、早く食べて仕事に戻ろ!」「うん!」 作家の仕事と同じくらい、私はこの書店での仕事も大好きだ。このお店で大好きな仲間と働けていることに感謝しながら、私はお弁当の残りをかき込んだ。 * * * * ――それから二週間ほど経った。 週四~五日は昼間はバイト、夜は原稿執筆に精を出し、休日には書けたところまでをチェックするという日々を送り、季節は梅雨からすっかり夏になっていた。今年は梅雨明けが早かったらしい(注・この作品はフィクションです)。 今日は店長のご厚意(こうい)で、有給にしてもらえた。昨日、「今の原稿、明日には書き上げられそうなんです」って私が言ったら、「じゃあ明日は有休あげるから、執筆頑張るんだよ」と言ってくれたのだ。
――そして、待つこと十数分。 ピンポーン、ピンポーン ……♪ ……来た! 私はインターフォンのモニター画面に飛びつく。「はい!」『原口です。原稿を頂きに来ました』「はっ……、ハイっ! ロック開けてあるのでどうぞっ!」 思わず語尾が上ずってしまい、インターフォン越しに彼がプッと吹き出したのが分かった。……恥ずかしい! 緊張してるのがバレバレ! もう二年以上の付き合いなのに(仕事上だけれど)、「今更?」って思われていたらどうしよう? そしてそのショックで、昨日まで練(ね)りに練った告白プランが全部飛んでしまった。「――先生、おジャマします」「はい、……どうぞ」 玄関で原口さんを出迎えた私は顔が真っ赤だったはずだけど、彼は「今日、暑いですよね」と言っただけでいつもの定位置に腰を下ろした。――彼なりに空気を読んでくれた?「あの、先生――」「あ……、原稿ですよね? ここにちゃんと用意してあります」 何か言いかける彼の機先(きせん)を制し、まずは原稿の封筒を彼に手渡す。「あ、ありがとうございます。――あの、ここで読ませて頂いてもいいですか?」「はい。じゃあ私、冷たいものでも淹れてきますね」 私はキッチンに立つと、二人分のアイスカフェオレのグラスを持ってリビングに戻った。 彼は普段と変わりなく、原稿を一枚一枚めくっている。でも今回はじっくり時間をかけて読み込んでいる気がする。「――コレ、どうぞ」 グラスを彼の前に置いても、「どうも」と会釈してくれただけで、視線はすぐ読みかけの原稿に戻された。私は何だか落ち着かず、彼の隣りでアイスカフェオレを飲みながら成り行きを見守ることに。 ――原口さんが二百八十枚全部を読み終わったのは、夕方五時半ごろだった。「どう……でした? 誤字とかのチェックはもう自分でしてあるんですけど」 私は彼に、原稿の感想を訊ねてみる。毎回この瞬間はドキドキするけれど、今回の緊張感は普段とはケタ違いだ。「……いや、これスゴいですよ。恋愛遍歴なんかもう赤裸々(せきらら)すぎちゃって、僕が読むのなんかおこがましいっていうか何ていうか」「いいんです。あなたに読んでほしかったから」 私の過去の男性遍歴は、あまり人に自慢できるようなものじゃないけれど。それでも好きな人には知っていてほしいから。
「――私ね、前にも話しましたけど、潤とのことがあってから、『もう恋愛は懲(こ)りごり』って思ってたんです。もう恋愛で傷付いたり疲れたりしたくないって。……でも私はやっぱり恋愛小説家だから、性(しょう)懲(こ)りもなくまた恋をしちゃいました」 考えていた台詞はどこかに行ってしまったけれど。私のこの想いだけ伝わればいい。「原口さん。……私、あなたが好きです。多分、二年前に担当になってくれた時からずっと」 よし、言えた! ――さて、彼の反応はどうだろうか?「…………えっ!? ぼ、僕ですか!?」 ……がくぅ。私は脱力した。これってわざとですか? ボケですか?「そうに決まってるでしょ!? 今ここに、他に誰かいますか?」「そう……ですよね。いやあ、なんか信じられなくて」 コメカミを押さえながらツッコむと、彼は夢心地のように頬をボリボリ。でも次の瞬間、彼から聞けたのは思いがけない(こともないか。実はそうだったらと私も密かに望んでいた)言葉だった。「実は僕から告白しようと思ってたので、まさか先生の方から告白されるなんて思ってなくて」「え……?」 待って待って! これって夢?「僕も、巻田先生が好きです。二年前からずっと」「……ホントに?」「はい」 こんなシチュエーション、小説にはよく書いてるけど、いざ自分の身に起こると現実味が薄い。「……あの、あなたが二年前に琴音先生より私を選んだのはどうして? 彼女の方がずっと魅力的なのに」「それは、僕が心惹かれた相手が先生だったからです。責任感が強くて一生懸命で、でも僕のボケには的確にツッコんで下さって。僕にとってはすごく可愛くて魅力的な女性です」 〝ボケ〟とか〝ツッコミ〟とか、いかにも関西人の彼らしい。――つまり、私達の相性は最強ってことかな。SとMで、当たり前のように惹かれ合っていたんだ……。「――実はね、私ちょっと前まであなたのこと苦手だったんです。あなたが酔い潰れた姿を見るまでは、あなたのこと口うるさいカタブツだと思ってたから」 あの夜、〝素〟の彼を見て分かった。彼は精一杯、バカにされないように突っ張っていただけなんだと。「じゃあ、あの夜に僕が本当は何を考えてたか分かりますか? ――もしこのリビングが明るかったとしたら」「え……」 私は瞬く。と同時に理解した。男性である彼が、「理性を保てなく
私は目を閉じた。自分の心臓の音が、映画の効果音のようにバクバク聴(き)こえてくる。彼の吐息を間近に感じたかと思うと、唇が重なった。それも一瞬じゃなく、数秒間続いた。長いけれど優しいキス。 唇が離れると、彼は私を抱き締めてこう言った。「先生、今日はここまでにします。これ以上はちょっと……歯止(はど)めが効かなくなりそうなんで」 私はそれでも構わなかったけれど、その台詞が誠実な彼らしいので素直に頷いた。「じゃ、僕はそろそろ失礼します。――あ、そうだ。一つ、先生にお願いが」「お願い? 何ですか?」 私は首を傾げる。彼の事務的(ビジネスライク)な口調からして、「やっぱりさっきの続き」とかいう空気じゃなさそう。「カバーの題字に、先生の字をそのまま使わせて頂けないかなと。……構いませんか?」「えっ? ――はい、いいですよ」 作家の手書き文字を読者に見てもらえる機会なんてあまりないし、エッセイの内容からしてもそれはすごくいいことだと思う。「本当ですか!? ありがとうございます! ――じゃ、僕はこれで。また連絡します」「はい。……原口さん、ありがとうございます。これからもよろしくお願いします」 原口さんは玄関先でもう一度私にキスをして、ペコリと頭を下げて帰っていった。 ――私はソファーに座り込むと、唇をそっと指でなぞった。そこには柔(やわ)らかな感触と、どちらのか分からないカフェオレの香りが残っている。グラスを見たら、彼の分も空になっていた。 ……私、キスだけで腰砕(こしくだ)けになってる。恋をしてこんなになったのは初めてだ。 でも、原口さんに私の想いが伝わってよかった。恋心だけじゃなく、エッセイに込めた想いも。だから、彼に私の字をそのまま題字に使いたいって言われたのはすごく嬉しかった。 『シャープペンシルより愛をこめて。』、――それがあのエッセイのタイトル。 彼に伝わったように、このエッセイを読んでくれる全ての人達にも、私の想いが伝わればいいなと思う。
原口さんと両想いになってすぐ、私は潤に電話をした。「――潤、ゴメン。やっぱりアンタとはやり直せない。あたし、原口さんと付き合うことになったから」「……そっか、分かった。好きなヤツと両想いになれてよかったな、奈美。オレ、これでお前のことスッパリ諦めて、次の恋探すよ」 私にフラれた潤(アイツ)は、声だけだけれどスッキリしたような感じがした。 ――そして、私と原口さんが結ばれてから数週間が過ぎた八月上旬。 〈パルフェ文庫〉の創刊第一号・『シャープペンシルより愛をこめて。』の発売が三日後に迫る中、私のスマホに彼からのメッセージが受信した。『編集部が完成したので見にきませんか?』 さらに、公式サイトに書影(しょえい)もアップした、とのこと。私はそれが一目で気に入った。 私の文字がそのまま使用され、あとは原稿用紙のマス目とシャーペンの写真・ペンネームがデザインされているだけでとてもシンプルだけど、それが却って斬新(ざんしん)だ。 * * * * ――その翌日、バイトの休みを利用してできたてホヤホヤの編集部を訪れた。午前から来てもよかったけど、忙しいと迷惑がかかるかな……と思い、午後にした。 洛陽社のビルにはもう何度も来ているけれど、ここが彼氏の職場となると別の意味で緊張する。彼の働いている姿が見られると思うと……。 日傘の柄(え)を手首に引っかけ、オフショルダーの服でむき出しの肩に提げたバッグを担(かつ)ぎ直し、私は八階でエレベーターを降りた。この階は文芸部門のフロアーで、いくつかのレーベルの編集セクションと小会議室が数室あり、中でも〈ガーネット〉の編集部はこのフロアーの実に三分の二を占(し)めている。「――あ、巻田先生! お待ちしてました!」 小会議室が並ぶ廊下で、彼氏(!)になったばかりの原口さんが待っていてくれた。「原口さん! お疲れさまです。ご厚意に甘えて来ちゃいました」「〈パルフェ〉の編集部は一番奥です。案内しますね」 彼に先導(せんどう)され、私は〈ガーネット〉を含む他のレーベルの編集部をぐんぐん横切っていく。「――ところで、私達付き合い始めてもうじき一ヶ月になるんですけど。お互いの呼び方何とかしませんか?」 私はこの場の空気を読んで、小声で彼に提案した。この一ヶ月ほどで、私達の関係に何か変化があったのかといえば特にそん
「そうですかあ? じゃ、僕のこと下の名前で呼んでみて下さいよ」 ……出た、久々のドS原口。しかも上から目線で。「分かりました。――こ……、こ……晃太さん……」 男性を下の名前で呼ぶのなんて潤の時以来のことなので、すんなりとは呼べずにどもってしまう。恥ずかしくて顔も真っ赤だ。でも、彼はそんな私のことを「可愛い」と笑ってくれた。「まあ、それは焦(あせ)らずにボチボチ変えていきましょうか。――あ、着きました。先生、ここが〈パルフェ文庫〉の編集部です」「へえ……、ここが。小さな部署ですね」 そこは五,六人分のデスクと小さな応接スペースがあるだけの、小ぢんまりしたセクションだった。当然、一番奥のデスクが編集長になった彼の席なんだろう。 まだ片付いていない荷物もあるらしく、あちこちに段ボール箱が残っているけれど、ジャマになっているわけではない。「〈ガーネット〉の編集部も、最初はこのくらいの規模からスタートしたそうですよ」「へえ……、そうなんだ」 それが今や、あれだけの大所帯になるなんて。大したもんだ。「ここもいずれは……と思ってますけど、まだスタートを切ったばかりですからね。――どうぞ、座って下さい」「失礼します」 私が応接スペースのソファーに腰を下ろすと、原口さんは自分のデスクからプチプチマットに包(くる)まれた一冊の文庫本を取ってきて私に差し出した。「これ、先生が書かれた『シャープペンシルより愛をこめて。』の見本誌です。ご自宅に郵送しようと思ってたんですが、今日来て下さったんで先に一冊お渡ししておきますね。残りはご自宅にお送りします」「わあ……! ありがとうございます!」 私は受け取った文庫本を、後生大事に胸に抱き締めた。「私ね、毎回この瞬間が一番『あー、作家になってよかったなあ』って実感できるの。今回は初挑戦のジャンルだったから余計に」 今回の原稿では〝産みの苦しみ〟を経験した分、こうして無事に本になってくれて、喜びも一入(ひとしお)だ。「この表紙、他のレーベルの編集者さん達からも評判いいですよ。『シンプルでいい。特に直筆の題字がいい』って」「そうなんだ? 直筆やっててよかった」 私はプチプチの外装(がいそう)を剥(は)がし、カバーの手触りを確かめるように表面をひと撫(な)でして感慨に耽った。そんな私を見つめる彼の目は、深い愛情
* * * * ――秘書室に配属された他の子たちと一緒に、エレベーターでこのビルの最上階・三十四階へ上がると、そこは重役フロアーだ。社長室、専務と常務それぞれの執務室、小会議室、そしてフロアーのいちばん奥には会長室があり、秘書室のオフィスは給湯室を挟んで会長室の隣に位置している。 今のところ人事部長が専務、秘書室長が常務を兼務されているため、専務と常務の執務室は使われていないらしいけれど。小川先輩の話では次の役員人事で室長が副社長、人事部長は常務になるそうなので、近々また使用される予定とのこと。そして次の専務はどうやら、桐島主任が就任するんじゃないかともっぱらの噂らしい。……それはさておき。「秘書室へ配属されたみなさん、入社おめでとう。私が室長の広(ひろ)田(た)妙(たえ)子(こ)です。よろしく」 わたしたち新入社員をにこやかに出迎えて下さったのは、パリッとした真っ白なスーツ姿で長い髪を一つに束ねた四十代前半くらいの女性。メタルフレームの眼鏡(メガネ)をかけているキャリアウーマン風の人で、一見厳しそうな印象を受けるけれど、小川先輩曰く茶目っ気もあって優しい人だよ、とのこと。「我々秘書の仕事は、一言でいえば上役のサポート役です。主な内容はスケジュール管理、来客の応対、その他業務の代行など。ですが難しく考えないで、自分にできることを誠心誠意務めるということがいちばん大切だと私は考えています。やり方は一人ひとり違っていいので、自分に合った仕事のしかたを見つけていって下さいね」「「「「はい」」」」 室長のお言葉で、「秘書の仕事って難しそう」と思って肩に力が入っていたわたしも少し気が楽になった。 そして室長の次に、爽やかに挨拶をしたのが――。「みなさん、入社おめでとうございます。僕が秘書室主任で、会長秘書も務めている桐島貢です。よろしくお願いします」 程よくガッシリした長身の体に紺色のスーツを着込み、赤い巣とストライプ柄のネクタイを締めた桐島主任だった。 わたしは彼に思わずポーッとなってしまう。この人は絢乃会長の婚約者で、彼女のことを心から愛しているんだと分かっているのに……。 ……これは恋じゃない。ただの憧れの感情だと自分に言い聞かせる。多分、アイツから逃げたいだけの現実逃避なんだと。
* * * * ――結局、彼はやっぱり泊っていくことになった。 洗い物を済ませてから二人で交代に入浴し、寝室で甘~~い時間を過ごしたら、私は無性に書きたい衝動(しょうどう)にかきたてられた。「――ゴメンなさい、原口さん。私、これからちょっと仕事したいんですけど。机の灯りつけてても寝られますか?」 私が起き上がると、彼は「仕事って、執筆ですか?」と訊き返してくる。「そうです。眩しいようだったら、ダイニングで書きますけど」「いえ、僕のことはお気になさらず。……ただ、明日出勤でしょ? あんまり遅くまでやらないようにして下さいね」「うん、ありがとうございます。キリのいいところまでやったら、適当に寝ます。だから気にせず、先に寝てて下さい」 私はベッドから抜け出して、部屋着の長袖Tシャツの上からパーカーを羽織り、机に向かった。書きかけの原稿用紙を机の上に広げ、シャープペンシルを握る。 ノートパソコンは、相変わらずネットでしか稼働(かどう)していない。タイピングの練習は、時間が空いた時だけやっている。でも、パソコンで執筆する気にはやっぱりなれない。 原稿を書きながら、数時間前に観た映画のラブシーンとついさっきまでの彼との濃密(のうみつ)な時間を思い出しては、一人で赤面していた。私が書いている恋愛小説は濃厚(のうこう)なラブシーンが登場するようなものじゃなく、主にピュアな恋愛を描いているものがほとんどなのだけれど。 私の恋は、小説やTVドラマや歌の世界を地(じ)でいっている気がする。 潤のことも、もちろん本気で好きだった。だから、「小説家なんかやめろ」って言われてすごく傷付いたんだと思う。「どうして好きな人に応援してもらえないの?」って。 でも、原口さん相手ほどは燃えなかったなあ。こんなにどっぷり好きになった相手は、多分彼が初めてだ。そして、ここまで愛されているのも。 だって彼は、私のことを丸ごと愛してくれているから。私のダメなところも全部認めてくれて、決して貶さないし。……こんなに出来た彼氏は他にいないと思う。 ――集中してシャーペンを走らせ、原稿用紙十五枚を一気に書き上げると、時刻は夜中の十二時過ぎ。いつの間にか日付が変わっていた。「ん~~っ、疲れたあ! そろそろ寝よ……」 私はシャーペンを置き、思いっきり伸びをした。ふと、後ろのベッド
「――さて、と。まだ時間も早いですけど、DVDでも観ます?」 私はソファーから立ち上がると、ミモレ丈(たけ)のデニムスカートの裾を揺らしてTVラックの所まで行き、彼に訊ねる。 今日は映画を観てきたけれど、この部屋の中での時間の潰し方は限られる。TVを観るか、DVDを観るか、仕事するか。それとも…………。「いいですけど。ちなみに、どんなジャンルですか?」「ワンパターンで申し訳ないんですけど、恋愛映画……。洋画と邦画、どっちもありますけど」 これでも恋愛小説家である。他の作家さんの恋愛小説だけでなく、時にはコミックやTVドラマ・映画などを作品の参考にすることもあるのだ。そういう意味で、恋愛映画のDVDは資料としてこの部屋には豊富に揃(そろ)っている。「じゃあ……、邦画の方で」「了解(ラジャー)☆」 私が選んだのは、〝恋愛映画のカリスマ〟と名高い若手映画監督がメガホンをとった映画。今日観て来た映画とは違う、ドラマチックな演出をすることで有名な人の作品だ。 ――でも見始めてから、この作品を選んだことを後悔した。「「わ…………」」 途中で際(きわ)どいラブシーンが流れて、何となく気まずい空気になったのは言うまでもない。 あまりにも生々しすぎるラブシーンを直視できず、TV画面から視線を逸らしてチラッと隣りを見遣れば、原口さんは瞬(まばた)きひとつせずに画面に釘付けになっていた。 ……目、大丈夫かな? ドライアイにならない? 私は彼の顔の前に手をかざして上下に動かしてみる。「お~い、起きてますかぁ?」「…………ぅわっ!? ビックリした!」 ハッと我に返った彼のガチのビックリ顔がおかしくて、私は思わず吹き出した。「ハハハ……っ! めっちゃ見入ってましたねー」「スミマセン」 お家デート中に彼女の存在そっちのけで映画に見入っちゃうなんて、なんて彼氏だ。……まあでも、面白いものが見られたからよしとしよう。「――あ、終わった。ちょっと刺激強すぎたかな……」 映画は二時間足らずで終わった。プレイヤーから出したディスクをケースに戻し、次に観る時はもう少し刺激の少ない映画にしようと思った。「お風呂のお湯、入れてこようっと。――先に入りますか?」 この調子だと、今日も彼はこの部屋に泊まっていくことになりそうなので、私はバスルームに向かいがてら彼に訊ね
「原口さんだって、もうちょっと広い部屋の方が落ち着けるでしょ? ベッドだって狭いし」「だったら、ベッドだけシングルからセミダブルに変えたらいいんじゃないですか?」 彼の提案は身もフタもない。せっかく「あなたの部屋の近くに引っ越したい」って言うつもりだったのに。「ここの寝室は狭いから、セミは置けないんです。だからどっちみち引っ越すことになるの。……まあ、狭いベッドの方が、ベッタリくっついていられるから私もいいんですけど」「そっ……、そういう意味で言ったんじゃ………」 ちょっと意味深な視線を送ると、彼は真っ赤になって慌てた。私より恋愛慣れしているわりには、結構ピュアだったりするのだ。「冗談ですって。でも、引っ越すなら赤坂の方の物件がいいな。原口さんのお部屋の近く」「え……」「その時は、お手伝いよろしく☆」「…………はい」 私の方が年下なのに、彼は腰が低いというか、立場が弱いというか……。私に何か頼まれると、「イヤです」とは言いにくいらしい。話し方だって、未だに敬語が抜けないし。 しばらく話し込んでいたら、マグカップに入っていたミルクティーはもうほとんど飲み終えつつあった。私は彼の肩にそっと頭をもたげる。「――あ、そういえば美加が、『いつ結婚式の予約入れてくれるの?』って言ってたんですけど」「美加さんって……、こないだ取材させて頂いたウェディングプランナーのお友達ですか?」
――私と原口さんが代々木のにある私のマンションに着いたのは、それから三十分後のことだった。 ちょっと空(す)いていた電車の中では、二人で隣り合って座席に座ることができた。そこで私達が話していたのは今書いている原稿の進み具合とか、「入った印税をどう使うのか」とか、そんなことだった。「――どうぞ、上がって下さい。コーヒーか何か淹れましょうか?」 私は彼に来客用スリッパを出してから、リビングのソファーにバッグを置いた。「じゃ、紅茶がいいなあ。ミルクティーで」「はーい。私の分も用意するんで、ちょっと待ってて下さいね」 ソファーに腰を下ろした彼のオーダーを聞き、私はキッチンに足を向けた。備え付けの食器棚からマグカップと紅茶のティーバッグを二つずつ出して、水をいっぱいにした電気ケトルのスイッチを押す。 カップのセッティングをしてから、「お茶うけもあった方がいいかな」と思った。――お菓子、何か入ってたっけ? あっ、確かチョコチップクッキーが残っていたはず……。「――お待たせ!」 数分後、私は二人分のミルクティーのマグカップとクッキーの載(の)ったお皿をお盆に載せ、リビングに戻った。「ありがとうございます。……あ、クッキーも? さすが先生、気が利(き)くなあ」 原口さんはお礼を言ってカップを受け取ったけれど。……ん? 「気が利く」ってどういう意味? いつもは気が利かないって遠回しに言っているのか、それとも女性らしい気配りができているっていう褒め言葉なのか……。解釈が難しいところだ。何せ、彼はS入ってるからなあ。「そんなに悩まなくても……。素直な褒め言葉ですから」 首を傾げている私に、苦笑いしながら彼はフォローを入れた。「ああ、そうなんですね。……別に、何かお茶うけがあった方がいいかなーと思っただけです」 ……本当に、私って可愛くない。褒められても素直に喜べなくて、こんな憎まれ口叩いて。「いただきます」 一人しょげている私をよそに、彼はおいしそうにミルクティーをすすり、お皿の上のクッキーをつまむ。下手に慰めようとしないのは、彼なりの優しさなのだろう。今の私には、その方がありがたい。それとも、ただマイペースなだけなのか……。「――それにしても、この部屋って狭いですよね。ぼちぼち引っ越そうかな」「えっ、引っ越すんですか?」 私も紅茶をすすりな
「ね? 可愛げないでしょ?」 私が同意を求めると、彼はそれを力いっぱい否定した。「いえいえ、そんなことないですよ! 先生はご自分で思ってるよりずっと可愛いし、魅力的な女性です」「……はあ、それはどうも」 そのあまりの熱弁ぶりに、私は目を丸くした。彼の私への想いはそんなに強いのかと、改めて気づかされる。「…………すみません、ついアツくなっちゃって。でも、先生は十分(じゅうぶん)女性としての色気はあるのに無防備すぎるんです」「えっ、どんなところが?」 私って自覚なさすぎるんだろうか? それじゃあ、付き合う前から私は気づかないうちに、彼を惑(まど)わせていたかもしれないってこと……?「ある朝原稿を受け取りに行ったら、ショートパンツ姿でナマ足出してるし。酔っ払って泊めてもらった夜には、至近距離(しきんきょり)でシャンプーのいい香りさせてるし。こっちは理性保(たも)つのが大変だったんですから」「うう……っ!」 思い当たるフシがいっぱいありすぎて、私は思わず両手で顔を覆(おお)った。当たり前だけれど、やっぱり原口さん(この人)も成人男性だったんだ。私の悩ましい姿の数々(かずかず)を目にしながら、一人悶絶(もんぜつ)していたなんて。「……手、出そうとは思わなかったんですか?」 恥を忍んで、私は訊いてみる。我慢するくらいなら、いっそ触れてくれればよかったのに。「出せるワケないでしょ? 自分の欲求に任せて手を出したら変質者とおんなじです。そんなマネ、俺はできませんっ!」 鼻息も荒く、原口さんが吠えた。そして、彼が〝俺〟って言うの、久しぶりに聞いた。 どうでもいいけど、ここは駅のホームで周りには人がいっぱいいる。さっきの原口さんのシャウトに驚いた人達が、なんだなんだとこっちを見ているので,私は今かなり恥ずかしい。「……分かりました! っていうか原口さん、声大きいから! エキサイトしすぎ!」 小声でたしなめると、彼はやっと我に返った。「はっ……!? あ……、スミマセン」 恥ずかしさで顔を赤らめ、神妙に縮こまる彼。なんだかおかしかった。私は思わずククッと笑い出してしまう。「……え? なんかおかしいですか?」「ううん、別にっ!」 そう言いながらも完全にツボった私の笑いはなかなか治まらず、私は彼のいない方を向いて声を殺して笑い続けた。彼もムッとするど
「……まあ、いいですけど。明日も仕事休みですし」 明日は日曜日。いわゆる〝会社員〟である原口さんはお休みだ。「ナミ先生は、お仕事は? 書店さんの方の」 彼は担当編集者なので、私の作家としての方の仕事はもちろん把握(はあく)している。今は、ウェディングプランナーとして働いている友達・美加をモデルにした新作の小説を執筆中だ。 でも、もう一つの仕事である〈きよづか書店〉でのバイトのスケジュールまでは訊かない。デートの約束をする時だって、私からしか話さない。「私は明日出勤日ですけど。もし私の出勤時間に起きられなかったら、原口さんは寝てていいですよ。合鍵あるんだし,戸締りだけちゃんとして帰ってくれたらいいですから」「そんなに僕に泊まってってほしいんですか? 先生って今まで、ロクな恋愛してこなかったんですね」 ……出た、久々のS発言! 別に彼にベッタリしたいわけじゃないんだけど……。「そっ……、そんなことは――」「ない」とは言い切れない。しばし自分の頭の中の引き出しをひっくり返し、私はこれまでの自分の恋愛を振り返ってみた。「……うん、確かにそうかも」 情けないことに、彼の指摘は思いっきり的(まと)を射(い)ていた。「原口さんの言う通りかも。今まで私、頑張って恋愛してきた気がするんです。『恋愛小説家なんだから、恋しなきゃ!』って。で、頑張ってロクでもない男につかまって失敗して」「あ……、当たってたんですね。悪気はなかったんです。すみません」「マズい」と思ったのか、彼は慌てて私に謝った。 悪態(あくたい)はついても、悪役にはなりきれない。そこが彼の憎めないところだ。「ううん、別に何とも思ってないですから。……まあ、十代の頃は別として、大人になってからホントに気心知れた相手と付き合ったのは原口さんが初めてかも。私って可愛げないし」 最後はもうほぼ自虐(じぎゃく)ぎみに言って、私は肩をすくめた。「僕はそんなことないと思いますけど……。〝可愛げない〟って、どんなところが?」 原口さんは首を傾げる。「だって、酒豪でしょ? 言いたいことズケズケ言うでしょ? それに甘え下手でしょ? 泣くことだってあんまりないし」 私は思い当たるフシを、指を折りながら挙げていった。酔ってしなだれかかることもない。男の人に甘えることもあまりない。モジモジもあまりしない。
原口さんと交際するようになって、彼の私生活(プライベート)も少しずつ分かってきた。彼は運転免許証を持っていないため、車の運転ができない。通勤にも私のマンションに来る時にも、公共の交通機関を利用しているらしい。 もちろん、私とデートする時にも……。でも今までだって、車を運転できるような男性と交際したことはないので、私はそんなことちっとも気にならない。 そして、彼が一人暮らしをしているマンションは赤坂(あかさか)にある。お部屋は十五階建てマンションの五階にあるけれど、エレベーター付き。 出身は前にも聞いたけれど兵庫県(ひょうごけん)の南東部。でも神戸(こうべ)じゃない。どうりでたまに関西(かんさい)弁がポロっと出るわけだ。彼は大学進学を機に上京して来て、それ以来はなるべく関西弁を使わないように、極力(きょくりょく)標準語で話すようにしていたけど、それでも生まれついたネイティブな話し方は何かの拍子につい出てしまうものらしい。
「まあ……、一応考えときます」 私自身も作家として、もっと広い世界を見てみたい。もっと幅広いジャンルにもチャレンジしてみたい。だから専属作家になろうとは思わない。……でも、まだ原口さん以外の編集者さんと組むのには不安がある。 まだ当分は、今の状態のままでいい。彼はいつも私の意志を尊重してくれるから、ムリに〝専属〟を押しつけるつもりは最初からなかったのだろう。「そうですか。まあ、最終的には先生のご意志に任せるので、ムリに『専属作家になれ』とは言いませんけど」「やっぱりね。あなたならきっとそう言うだろうと思ってました」「〝やっぱり〟って何が?」 自己完結で納得していると,すかさず原口さんからツッコミが入った。「ううん,何でもないです。――もう少ししたら、お店出ましょうか」 私達のお皿の中身は、どちらも残り少ない。コーヒーも飲み干してしまったし、あまり長居してしまうのはお店の迷惑になる。「そうですね……。じゃ、お会計は先生持ちで」「ええ~~!?」 私は形だけのブーイング。でも、これはこの人と付き合い始めてからはいつものことだ。「〝ええ~!?〟って何ですか。印税たくさん入ったんでしょ? 白々(しらじら)しいアピールはやめましょうよ」「……バレたか」 本当は最初から私がご馳走(ちそう)するつもりでいたのだ。冗談で言ったのだと、彼にはバッチリ見抜かれていた。でもこういう時、冷静に的確にツッコんでくれる。そんな彼が私は大好きだ。 ――何やかんやで私が支払いを済ませ、店を出るともう外は暗くなっている。「〝秋の日はつるべ落とし〟って言いますけど、このごろ日が暮れるの早いですねー」「ホントにね。っていうか、今どきの若い人はそんな言い回し使いませんよ。ナミ先生、さすがは作家さんですね」「……どういう意味?」 褒めているのかイヤミで言ったのか分からずに、私がキョトンとしていると。「ボキャブラリーが豊富っていう意味です」 とりあえず褒めているらしいと分かって、嬉しい反面ちょっとカチンときた。「もう! だったらストレートに褒めて下さいよ! ホンっトに素直じゃないんだから」 彼の愛情は分かりづらいから、誤解を招きやすい。でも私だけは、彼の言葉の裏側に潜む優しさをちゃんと理解してあげたいと思う。